縄文時代の集落は平地にない?三内丸山・耳取・デーノタメ遺跡から真相を徹底解説
「縄文時代の集落は平地には建設されなかった」という説を耳にしたことはないでしょうか。たしかに、縄文時代の代表的な集落跡を調べると、台地や丘陵、河岸段丘など、周囲より一段高い場所に立地する例が数多く見つかります。しかし、縄文人が平地や低地を一切利用しなかったという理解は正確ではありません。
青森県の三内丸山遺跡、新潟県の耳取遺跡、埼玉県のデーノタメ遺跡を比較すると、住居を建てる場所と、水を得たり植物を加工したりする場所を使い分けていた実態が見えてきます。2026年時点で確認できる自治体の公式資料や文化庁の文化財情報、考古学研究を手がかりに、縄文時代の集落の立地理由、環状集落の仕組み、時代による変化を整理します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:縄文時代の集落は台地・丘陵・段丘上に立地する例が多いものの、「平地には建設されなかった」と断定するのは誤り。
- 要点2:水の確保、洪水への備え、食料資源へのアクセスなど、複数の条件を組み合わせて住む場所が選ばれていた。
- 要点3:三内丸山遺跡・耳取遺跡・デーノタメ遺跡は、地形の利用方法や集落構造、時代ごとの変化を比較する重要な事例。
【説の真相】縄文時代の集落は本当に平地には建設されなかったのか
最初に答えを示すと、「平地には建設されなかった」という表現は、縄文時代の集落立地の傾向を単純化したものです。より正確には、住居を集中的に配置する場所として、台地・丘陵・河岸段丘などの比較的高い土地が選ばれる例が多かったと理解するのが適切です。
ここで注意したいのが、「平地」という言葉の意味です。地面が平らな場所という意味なら、丘陵の頂部や尾根上にある平坦地も含まれます。一方、考古学的な立地を考える際には、河川沿いの氾濫原や低湿地など、標高が低く水の影響を受けやすい土地との区別が重要になります。
たとえば、新潟県見附市の耳取遺跡は、東山丘陵から延びる標高76メートルの尾根上の平坦地に立地しています。「平坦な土地」に集落があったことは確かですが、地形分類上は丘陵の尾根に位置する遺跡です。これだけでも、単に地面が平らかどうかだけで集落の立地を判断できないことがわかります。
また、縄文人の生活圏は住居が並ぶ場所だけで完結していたわけではありません。飲み水を得る場所、木の実を採集する森林、魚介類を得る河川や海岸、植物を水にさらして加工する低湿地なども生活に関わっていました。
そのため、遺跡の立地を考えるときには、住居跡が集中する居住域と、周辺の水辺や資源利用の場所を分けて検討する必要があります。高い場所に住居を構えながら、低い場所を日常的に利用する暮らしは、縄文時代の遺跡から読み取れる重要な特徴です。

【立地の理由】なぜ縄文人は台地や丘陵を選んだのか
縄文時代の集落が台地や丘陵、段丘上に多く見つかる背景には、地形と水、食料、移動経路の関係があります。単純に「高い場所のほうが安全だった」という一つの理由だけで説明できるものではありません。
1.洪水や地面の水浸しを避けやすい
河川沿いの低地は、地形や河川の規模によっては増水や氾濫の影響を受けます。低湿地では地面の水はけが悪く、住居を長期間維持するうえで不都合が生じることもあります。
これに対し、周囲より高い台地や段丘は、一般に河川の氾濫水が直接到達しにくい場所です。竪穴住居を建て、日常的に火を使い、食料や道具を保管する生活を考えれば、安定した地面を確保できることには大きな意味がありました。
ただし、すべての台地が安全だったわけではありません。斜面の崩壊や土砂の流入、湧水による湿潤化などの危険性は地形によって異なります。縄文人がどのようなリスクを認識していたかを個別に断定することはできませんが、実際の集落分布を考えるうえでは、地形条件の違いが重要です。
2.飲み水を確保できる場所が近くにあった
高い場所に住むことは、水から遠ざかることと同じではありません。台地の縁や谷の入口、河岸段丘の周辺には、地下水が地表に現れる湧水地点が存在することがあります。
学術誌『第四紀研究』に掲載された、菊地真氏による房総半島の縄文時代集落の立地研究では、支谷の谷頭に面する台地・段丘上の集落と湧水地点との関係が検討されています。研究では、集落の近くで水を得られる地形条件と、堅果類を水にさらして加工する活動との関係が指摘されています。
この研究が示すのは、水場と住居のどちらか一方だけが重要だったのではなく、両者の距離や地形的なつながりも集落立地を考える手がかりになるということです。
3.森・川・海の食料を組み合わせやすかった
縄文時代の食料資源には、クリ、クルミ、ドングリなどの堅果類、山菜、魚介類、鳥類、哺乳類などがありました。地域の自然環境によって利用できる資源は異なり、集落の立地もその違いと関係していました。
たとえば、川や海に近い台地なら、水産資源を利用しながら、周囲の森林で木の実や動物を得ることができます。谷に近い場所では湧水を利用できる可能性があり、斜面や低地の植生も採集活動の対象になりました。
つまり、集落の場所は、単に住宅を建てやすい土地を探した結果ではありません。水、食料、移動経路、地面の状態などを組み合わせた生活上の選択として捉える必要があります。
【遺跡で比較】三内丸山・耳取・デーノタメの立地と特徴
実際の縄文時代の集落跡を比較すると、地形の利用方法が一様ではなかったことがわかります。文化庁の国指定文化財等データベース、青森県の三内丸山遺跡に関する公式資料、見附市と北本市の文化財資料をもとに、代表的な3遺跡の特徴を整理します。
| 遺跡 | 主な立地 | 時期・規模など | 立地からわかること |
|---|---|---|---|
| 三内丸山遺跡 | 青森市の丘陵先端部に広がる台地 | 縄文時代前期中葉~中期末葉を主体とする大規模集落。遺跡範囲は約42ヘクタール | 台地上の居住域と、周辺の森林・河川・海の資源を組み合わせた暮らし |
| 耳取遺跡 | 新潟県見附市の標高76メートルの尾根上の平坦地 | 縄文時代中期・後期・晩期の集落が確認されている | 同じ遺跡でも、時期によって集落の配置や構造が変化したこと |
| デーノタメ遺跡 | 埼玉県北本市の大宮台地から低地にかけての地域 | 縄文時代中期~後期。中期の環状集落は長径210メートル、短径160メートル | 台地上の居住域と近くの水辺を組み合わせ、植物利用の痕跡を残したこと |
三内丸山遺跡:高台に住み、森と海の恵みを利用
青森県青森市の三内丸山遺跡は、縄文時代の大規模集落を考えるうえで欠かせない遺跡です。青森県の公式解説によれば、遺跡は八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、北側には沖館川が流れ、陸奥湾にも近接しています。
集落の周辺にはクリやクルミなどを利用できる森林が広がり、海では魚介類を得ることができました。出土資料にも、竪穴建物跡、掘立柱建物跡、貯蔵穴、墓域、捨て場などのほか、魚骨や動物骨、木製品、堅果類に関係する資料が含まれています。
特筆すべきなのは、居住域とそのほかの施設が計画的に配置されていたことです。文化庁の文化財解説では、陸奥湾を望む段丘上の拠点的な集落として紹介されています。三内丸山遺跡は、単に高台に住居を建てた例というだけでなく、複数の自然資源を利用しながら大規模な集落を維持した事例でもあります。
耳取遺跡:3つの時期の集落構造を比較できる
新潟県見附市の耳取遺跡は、縄文時代の集落が長い時間の中でどのように変わったのかを考えるうえで重要です。見附市の公式資料によると、丘陵から延びる標高76メートルの尾根上に位置し、縄文時代中期・後期・晩期に集落が営まれました。
中期の集落では、12軒の竪穴建物跡が馬蹄形に並ぶ様子が確認されています。後期には中央広場を持つ大規模な環状集落が形成され、66棟の建物跡が見つかりました。晩期には、柱穴の配置などから掘立柱建物を含む別の集落構造が確認されています。
同じ場所でも、時期によって建物の配置や集落の規模、施設の構成が異なっていたのです。したがって、縄文時代の集落を「どこも同じような村だった」と考えるのは適切ではありません。
デーノタメ遺跡:住居と水場が一体となった生活圏
埼玉県北本市のデーノタメ遺跡は、台地上の居住域と、その下の低地にある水辺の利用を合わせて理解できる点が特徴です。北本市の公式資料では、縄文時代中期から後期にかけての集落と水場が確認され、中期の集落は長径210メートル、短径160メートルに及ぶとされています。
この遺跡では、低地部からクルミやトチノキの種実、漆塗土器など、有機質の遺物が多数出土しました。通常は腐朽しやすい植物などが、水分の多い環境で保存されていたためです。
北本市は、集落と水辺が一体となって残された全国的にも珍しい遺跡として紹介しています。また、デーノタメ遺跡は2024年10月11日に国指定史跡となりました。住居を置く場所だけでなく、水辺での活動や植物利用まで含めて縄文人の暮らしを考えられる、重要な調査対象です。

【低地の実態】縄文人は平野や水辺をどう利用していたのか
縄文時代の集落立地を考えるうえで、見落とされやすいのが低地の役割です。住居域が台地上にあるからといって、低地が生活から切り離されていたわけではありません。
低地は居住場所だけでなく、食料加工や採集の場所でもあった
デーノタメ遺跡のように、台地上に住居域が広がり、その近くに水辺が存在する遺跡では、居住と水辺の活動を一つの生活圏として捉えることができます。
水辺は飲み水の確保だけでなく、魚介類などの資源を利用したり、植物を水にさらして加工したりする場にもなり得ました。クルミやトチノキなどの堅果類は、種類によっては食べる前に処理が必要です。こうした作業と水場の関係は、縄文人の食生活を理解するうえでも重要です。
ただし、出土した植物や道具だけで、個々の作業が必ずその場所で行われたと断定できるとは限りません。遺物がどの地層から見つかったか、住居跡や水辺の遺構とどのような位置関係にあるかを確認しながら、利用方法を検討する必要があります。
低湿地では、普段は残りにくい資料が保存される
遺跡の発掘調査では、土器や石器だけでなく、植物の種実、木製品、動物の骨なども重要な資料になります。しかし、こうした有機質の遺物は、酸素に触れる環境などでは腐って失われることがあります。
一方、水分に富み、酸素が少ない状態が続く地層では、有機質の遺物が比較的良好に保存される場合があります。デーノタメ遺跡の低地部から多数の植物遺体などが見つかったことは、こうした保存環境の重要性を示す事例です。
この違いは、発掘された資料を読み解く際にも影響します。ある地域で木製品や植物遺体が少ないからといって、縄文人がそれらを利用していなかったとは限りません。遺跡の地形や土壌、保存条件によって、現在まで残る資料の種類が異なるためです。
「低地の遺跡」と「低地に住居を建てた遺跡」は区別する
遺跡の所在地が平野や低地にあることと、住居域そのものが低地に設けられていたことは同じではありません。遺跡の範囲には、居住域、墓域、捨て場、水辺での活動場所など、異なる機能を持つ場所が含まれることがあります。
デーノタメ遺跡を例に取れば、台地上の住居域と、その下の低地に残された水場や有機質の遺物を合わせて調べることが、暮らしの実態を理解する鍵になります。低地の利用が確認されたことを、そのまま「住居が低地に密集していた」と読み替えるのは避けなければなりません。
「縄文時代の集落は平地には建設されなかった」という説を検証する際にも、この区別が欠かせません。重要なのは、遺跡全体の所在地だけでなく、住居跡の分布と周辺施設の配置を確認することです。
【環状集落の仕組み】住居・広場・墓域はどう配置されていたのか
縄文時代の集落を特徴づけるものの一つが、住居跡などが環状に配置される「環状集落」です。代表例には三内丸山遺跡やデーノタメ遺跡、耳取遺跡などがあります。ただし、環状集落は縄文時代のすべての集落に共通する形式ではありません。
中央の空間と、その周囲に広がる住居域
環状集落では、竪穴建物などが円形や楕円形に分布し、中央に広場や墓域が存在する例が確認されています。耳取遺跡の縄文時代後期の集落も、中央広場を持つ環状集落として知られています。
竪穴建物は、地面を掘りくぼめて床面をつくり、柱や屋根を設けた建物です。建物の配置や重なり方、炉の位置、柱穴、墓や捨て場との関係を調べることで、集落の空間構造が明らかになります。
中央の広場がどのように使われたかについては、遺跡ごとの出土状況や遺構の特徴を踏まえて検討する必要があります。墓域や儀礼に関わる場所だった可能性がある一方、環状という形だけから、住民全員が同じ使い方をしていたと断定することはできません。
環状集落は、単なる住宅の集合ではない
集落には、住居のほかにも、食料を保管する穴、墓、廃棄物を捨てる場所、掘立柱建物など、さまざまな施設がありました。三内丸山遺跡では、居住域や墓域、貯蔵穴、盛土、捨て場などが計画的に配置されていたことが、文化庁や青森県の公式資料で紹介されています。
こうした配置は、縄文人が生活空間を一定の秩序のもとで使い分けていたことを示しています。集落の構造を考える際には、建物の数だけでなく、施設の種類や配置、継続して使われた期間にも目を向ける必要があります。
また、発掘で確認される建物跡の総数は、同じ時点に存在した住居の数と一致するとは限りません。長期間にわたって建て替えられた建物や、異なる時期に使われた住居跡が重なっている可能性があるためです。

【時代差と地域差】縄文時代の集落はずっと同じ形だったのか
縄文時代は非常に長い期間にわたる文化です。集落の規模や構造を一つのイメージで説明すると、地域や時期による違いを見落としてしまいます。
耳取遺跡では、中期・後期・晩期のそれぞれに集落が営まれ、住居跡の分布や建物の構造が異なっていました。中期の馬蹄形集落、後期の環状集落、晩期の掘立柱建物を含む集落という変化は、一つの遺跡の中でも集落構造が固定されていなかったことを示しています。
また、縄文時代中期には関東・中部地方などで環状集落が発達した一方、後期から晩期にかけては、地域や遺跡によって集落の規模や住居の配置に変化が見られます。こうした変化の背景には、自然環境や資源利用、社会関係など複数の要因が関わった可能性があります。特定の要因だけで全国の変化を説明できるわけではなく、研究が続けられているテーマです。
さらに、同じ時期でも地域差があります。海岸部では魚介類などの水産資源、内陸部では森林資源や河川環境が集落の暮らしに影響したと考えられます。地形、植生、水の得やすさ、移動経路などの条件が異なれば、住居を配置する場所や集落の規模も変わり得ます。
国立歴史民俗博物館の研究報告などでも、縄文時代中期の集落景観や環状集落の形成、集落間の違いが検討されています。環状に住居が並ぶ景観が、長期間にわたって途切れなく維持されたとは限らず、住居数の増減や居住の中断を伴う場合があることも、集落跡を読む際の重要な視点です。
つまり、縄文時代の集落立地を正確に理解するには、「縄文時代」という大きな時代区分だけでなく、個別の遺跡がどの時期に栄え、どのように変化したかを確かめる必要があります。
【プロの結論】縄文時代の集落立地を見極める3つの判断基準
遺跡の解説や考古学の情報を読むときは、次の3点を押さえると、「縄文人は高い場所にしか住まなかった」といった単純な説明に惑わされにくくなります。
判断基準1:地形と標高を確認する
まず、遺跡が台地、丘陵、河岸段丘、尾根、低地のどこに位置するのかを確認します。「平坦地」という説明があっても、それだけでは周囲の地形や洪水との関係はわかりません。耳取遺跡のように、尾根上の平坦地にある遺跡も存在します。
判断基準2:住居跡と水場・捨て場などを区別する
次に、住居跡の分布と、水辺、墓域、貯蔵穴、捨て場などの位置関係を確認します。遺跡の範囲が広い場合、異なる機能を持つ場所が含まれていることがあります。デーノタメ遺跡のように、台地の居住域と低地の水辺の両方が残る事例では、この視点がとりわけ重要です。
判断基準3:年代と調査成果を確認する
最後に、遺跡がどの時期に営まれたのか、どのような発掘調査が行われたのかを確認します。複数の時期の住居跡が重なる遺跡では、発掘で見つかった建物の総数が、一時点の人口や住居数を直接示すわけではありません。
三内丸山遺跡では、1992年から1994年にかけて行われた大規模な発掘調査を通じて、集落の構造や規模に関する理解が大きく進みました。耳取遺跡でも、2011年から2016年までの調査によって、時期ごとの集落の姿が詳しく調べられています。遺跡の解釈は、新たな発掘や分析によって具体化していくものです。
これらの基準を踏まえると、縄文時代の集落を評価する際に大切なのは、台地か平地かという二択ではなく、地形と生活の関係を具体的に捉えることだとわかります。
【縄文時代の集落は平地には建設されなかった】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:縄文時代の集落は、なぜ台地や丘陵に多いのですか?
A1:台地や丘陵、段丘などは、場所によっては洪水の影響を受けにくく、安定した地面を確保しやすいためです。また、谷の入口や台地の縁に湧水があれば、水を得ながら森林や河川の資源も利用できます。ただし、すべての集落が同じ条件を備えていたわけではありません。
Q2:縄文時代には平地や低地に集落がなかったのでしょうか?
A2:「平地には集落がなかった」と一律に断定することはできません。平坦な地形と河川沿いの低湿地は区別する必要があり、平野の中でも微高地など地形条件の異なる場所があります。また、住居域が台地にあっても、低地や水辺が生活の一部として利用されていた事例があります。
Q3:三内丸山遺跡やデーノタメ遺跡から何がわかりますか?
A3:三内丸山遺跡は、台地上に営まれた大規模集落で、住居や墓域、貯蔵穴などの配置と、森林・海・河川の資源利用を考える手がかりになります。デーノタメ遺跡は、台地上の居住域と低地の水場が一体となって残り、植物利用や水辺の活動を考えるうえで重要です。両者を比較することで、集落の立地が一つの型に限られなかったことがわかります。
まとめ:縄文時代の集落は「平地を避けた」だけでは説明できない
「縄文時代の集落は平地には建設されなかった」という説は、台地や丘陵、河岸段丘上に集落が多く見つかるという傾向を捉えたものですが、絶対的なルールとして理解するのは適切ではありません。
三内丸山遺跡は丘陵先端の台地に立地し、森や海、河川の資源を利用した大規模集落でした。耳取遺跡では、尾根上の平坦地で中期・後期・晩期の集落構造の変化が確認されています。デーノタメ遺跡では、台地上の住居域と低地の水場が一体となって残り、縄文人の植物利用を知る手がかりが得られています。
これらの事例から見えてくるのは、縄文人が高い場所だけを選んでいたという単純な話ではありません。住居を設ける場所と、水を得て食料を加工する場所、森林や海の資源を利用する場所を、地形に応じて組み合わせていたという姿です。
今後も発掘調査や地形分析、出土した植物・動物遺体などの研究が進むことで、集落の立地や地域ごとの暮らしの違いがさらに明らかになると考えられます。縄文時代の集落を理解するための最も確かな手がかりは、「平地か高台か」という単純な分類ではなく、遺跡の地形、住居跡の配置、周辺の水場、そして営まれた時期を合わせて読み解くことにあります。 (出典: 縄文時代の集落は平地には建設されなかった(Yahoo!ニュース))